中村佑介さん初の親子対談「母に聞きたかったこと~社会性の欠如と集中力」(前編)

イラストレーションNo.206のなかから、中村佑介さんと山下真知子さんの親子対談を掲載します。

中村さんがイラストレーターになる上で重要な影響を与えた山下真知子さんとの初めての対談が実現。中村さんは子供の頃にどのようにてられたのか?

思い出話から教育論まで、貴重な話を一挙掲載。

後編はこちら)

 

 

中村さんがお母さんに聞きたかったこと

 今回の親子対談をしたいと思ったのは、僕がサイン会をまわったり、講演会をしたりしているときに「この子はたぶん芸術に携わっていたら才能が出ていたのに、その道しるべが見えなかったんだな」って思う人ともたくさん出会ったから。実は、大学や専門学校に行く前の予備校の時点で、すでにその道に行ける人は行けるようになっている。だから絵の本格的な教育の一番最初が、そういう美大予備校だとしても、そこまでたどり着けない人って実は沢山いるんだなと感じていて。

それは金銭的な問題だけではなく、道に乗れない理由としては、やっぱり子どもが同じ絵を描いても、一方は「上手いから漫画家を目指したら?」って誉めたり、一方は「そんな遊びみたいなもの」みたいな感じに言ったり。でもその台詞選びひとつで、その後に絵を本格的に描いてみようかなとか、漫画の真似ばっかりしてたけど、オリジナルを描いてみようかなっていう気持ちになれると思うんだよね。

 自己啓発本みたいなのを読んだら「本人のやる気次第」って書いているけど、僕はそうじゃないと思ってる。絵を描く人ってやっぱり、もちろん本人の努力もあるんだろうけど、それ以上にそのレールに乗せるために、たぶん周りの人みんなが「いいじゃん」ってあまりうまい絵じゃなかったとしても言ってくれたり、周りに絵を描く友達とか仲間がいたりとか、そういう環境が大切だと思うんだよ。

 子どもの頃を思い返してみたら、自分もそういう恵まれた環境がたくさんあった上で、その後にようやく美大の予備校に行ったっていうようなことって、多くの人がすっかり忘れちゃうことで、その後の話ばっかりしてしまう。だからそういうところで、その道もきちんと示してあげられる教育について聞いてみたかった。

母 よい育児みたいなこと?

中 そうそう! お母さんは何か心掛けなどあったのかなと思って。そういうのを聞きたい。

母 私ね、エピソードがいっぱいあって。あなたには1つしか違わないお兄ちゃんがいて、双子みたいに育ててきた。2人とも若い時に産んでいるから、すごく子育てにこだわりみたいなのはあった。佑介も大学から一人暮らしをしたけど、それまでの濃い18年間にエピソードは山ほどあるから、それを死ぬ前に書きたい

中 書いて死ぬって(笑)。

母 今は他の子と同じように育ってもらいたいと考えている親が多い気がする。そういう考えだと、何か人と違ったことをやると「あなたはダメ、みんなと一緒に!」みたいに見がちだけど、その子の価値みたいなものを、ちゃんと認めて信じれば、その子は絶対伸びるなって思う。

 でも、そういうこだわりは持ってきたけれど、私は佑介が小学校よりも幼い時に、この子を何かにしてやろうなんて全く思ってなかった。理想はね、高校を卒業する時に「お母さん。僕、やりたいことがあるんだよ、だから、ちょっと遠いんだけど○○に行かせてくれる?」っていう台詞を言える18歳の男の子にしたかった。

中 選ぶ道はなんでもよかった?

母 なんでもいい。イメージとしては、どこかのすごい大学とかをイメージしてたんだけど、違った。お兄ちゃんは料理人になりたいって言ったし、佑介は漫画家になりたいって言った。あなたに関しては、14、5才の時に既に「僕は大学も、高校も本当は行きたくない。大学も行かないでゆでたまご先生(※1)の弟子になる」って言ってた。それまでは全部、ビックリマンの絵を穴があくほど、兄弟2人でコレクションして。

※1…漫画家ユニット。代表作は『キン肉マン』。

 

中村さんが持っていた類い稀な集中力

母 今日の対談は、子育ての話なんだろうなと思っていたので、いろいろ思い返してみたんだよ。「何があったのかな」って。2人とも同じように育ててきてるんだけど、あなたの場合は、一番秀でてたのは類い稀なる集中力を持っているところだった。

 それってもしかしたら今の時代だったら、「社会性の欠如」なんて言われてしまうかもしれないくらい、すごい集中力のある子どもだった。それとイメージ力のすごく強い子で。佑介が保育園に行った時に、お散歩遠足みたいなのをやるんだけど、その時に先生から「佑介君は、人が見過ごすようなものに目がいく」って言われたことがあって。

 それは先生がしゃがんでいる彼を見て「佑介君、どうしたの、早くいらっしゃい」って言ったら、「先生見てみて、可愛い」って言うんですって。見てたのはナズナの花。「かわいいね、揺れてるよ、ちっちゃいね」って言ってね、しばらくそれを感心して見ながらじっとしてたから、先生も固まっちゃって。そんなのみんな踏んずけていくのにって。

 他にも例えば兄弟2人で留守番していて、私が帰って、ご飯の支度しようと思って冷凍庫を開けたら、蝉が100匹くらい冷凍庫から落ちてきて。びっくり。「どうしたの?」って聞いたら「僕たちもお外にいる時は熱くて死にそうだよ。蝉さんも、ミーンミーンって聞こえてるけど、暑いよ~ 死にそうだよ~って言ってるんだ。だから涼しいとこに連れてきてあげた」って。蝉も生き返ると思って入れたんでしょうね。

中 生き返るどころか、冷凍庫に入れたことで死んでしまった!

母 そう。カッチンカッチン。あなたは会話も面白かった。私も結構そういうように、言葉でちゃんと育てた。私は働いていて、佑介が小さい頃から海外出張があったので、家を空けるじゃない。そういう時も交換日記を書かせて。

 私は人間って、死ぬまで結局自分を助ける力がないと、やっぱりつらいと思ってる。人から助けられるのも一生ではないから。だから、自分を助ける力をつけるためには、何かイメージしたものを表現する技術をつけなきゃいけないと思ったんだよね。例えば書くこと、絵でもいいし、文章でもいいし。交換日記は書かせたけど、実際は「お兄ちゃんとけんかした。おわり!」そんなんばっかだったけど(笑)。とにかく面白がって子育てしたっていうのはあったね。

 

母親から見た息子の絵

中 でも、お母さんも絵の仕事をしてたしさ、そういう目線でも子供の絵を見るわけでしょう。親の「よく描けたね!」っていうのとは別に、冷静に絵として上手いか上手くないかっていうのは絶対あると思うんだよ。だからそういう部分とどう付き合ってたのかなっていうことも聞きたかった。

母 ああ、なるほどね。私、あなたは今は有名だけど、それは結果というか、あなたの周りが有名にしてくださっているだけで、あなたの人生の道って何も変わっていない。もちろんお金を稼げるのはすごく大事なことなので、いいんだけど、それが終着点じゃなかったっていうのが大きくて。

 だから、今は経過だよね。出来上がり商品じゃなくて、あなたが努力し続けていく、その集中力を応援するのと、それであなたがすごく幸せなんだったら、それに対して邪魔をするものは排除してやろうみたいな、当時はそんな姿勢だった。夢中になることを持つっていうのは身を助ける。自分を助けることができる。あなたはたまたまラッキーにもそれが職業になっちゃったんだけど、別に仕事にならなくとも、自分で作ったものを抱きとめながら生きていくっていうのは、それをきっかけにいろいろな出会いがあるわけだから、趣味だとしても全然構わないのよ。

 だからそういう意味では、豊かに自分の人生を歩ける人になってもらいたかったので、この絵は「いけるとかいけない」という考えは全然なかった。ただ、すごい英才教育だったなと思うのは、素材だよね。絵を描く道具、それから紙にしても、普通「チラシの裏に描いとけ」とか言うでしょ、私は絶対そういうことはしなかった。

中 ビックリマンと同じ、プリズムシールの素材も買ってきてくれて、家にあったもんね。

母 そう。探して。

中 同じ4.8㎝四方で切ってさ。でも塗れる色ペンがなかったんだよね。だから白黒の絵になっちゃうんだけど。

母 そうそう。

中 水性の色ペンで塗ってもはじいちゃうんだよね。プリズムのようなツルっとした素材は。

母 もうビックリマンシールを集めていた小学生の頃には、結構自分のキャラクターみたいなのが描けてたんだけど、もっとちっちゃい時は、キン肉マンのキャラを真似したくて、家に帰ると必ず私に「描いて」って。

 そのうち自分で描けるように、子供でも破れない分厚いトレーシングペーパーを買って帰って、好きなだけ写させた。あれは絵に興味を持つ、第一歩だったと私は思ったから。真似は一番最初のクリエイティブだと思うからね。

 他にも家で、リビングにはテープカッターとか、彫刻刀、色鉛筆、絵の具、いろんな色の画用紙まで入った大きなお道具箱みたいな衣装ケースを置いた。そういう意味で、本物の素材を与えることはした。

 佑介は小学4年生くらいまでは、無口で絵を描いてばかりいた。4コマ漫画みたいなものも描いてて。それを自分で「変なおじさん」シリーズって名付けていた。

中 変なおじさん」だったら志村けんさんだから違うよ! 「変態おじさん」だよ! 一緒か(笑)。 自分のことながら、すごいタイトル。そうそう「変態おじさん」ていう名前の絵本を作ってた。

 そうそう、こんなちっちゃな、色画用紙で作った。

 それはまだ押入れにあるよ。

母    それを小学校5、6年くらいから描きはじめて、高校になっても自分で4コマじゃなく、6や8コマ漫画を描いていた。それを高校1年生の時に「描いたんだよ」って見せてまわったんだろうね。それが先生の目にとまって「お母さん、あの子は絶対何かなりますわ」って言ってくれた。「お母さんが責任を持って彼をちゃんとした道に進ませた方がいいと思います、うちは美術科はありません」って。そこで趣味で描いてるものに対して、先生がそういう風に言ってくれたというのも大きなきっかけとしてあると思う。その言葉で一気に行動に出たというか。でも、あなたは大学にも行きたくないって言ってた。

 

個性か変わり者か

中 早く仕事がしたかったんだよ。

母    そうそう、言ってた。

 お金が欲しかった。両親が絵で仕事をして、その収入から自分たちにお小遣いをくれるのに比べて「自分の絵はクラスで人気があっても1円にもなってないんだな」っていう悔しさみたいなものはずっと抱えていたので。高校も行きたくなかったくらいだから、本当は。

母 そうそう。高校にも行きたくないって言ってた。働きたかったんだよね。

中 働きたかった。ただそこで「レベルが足りない」とは言わず、何かと他の理由をつけて「高校へは行きなさい」「美大へは行きなさい」と言ったお母さんは、ぼくの心を傷つかないように守って、基礎になることもやらせて。でも、守ってないふりしてっていうことをしてくれていたんだなと思う。

母 それはあるね、すごく。

中 そういうような部分ってね「この子にとってはこれがいい」と思うのと同時に、あまりにも独創的な部分を守ってやりすぎるとさ、本当の変わり者になっちゃうというか。個性と変わり者って一緒だと思うんだよ。それを、どう社会との接点を見つけるかっていうのが難しい。例えば、僕だったら絵なのかもしれないし、言葉なのかもしれないけど。

母 平たく言っちゃうと変わり者と個性と、育てる時にどのように棲み分けをさせようと意識したのかってこと?

中 そうそう。社会不適合者に育て上げてしまうことにもなりかねないと。僕は今の頭で考えるとそう思っちゃう。

母 社会不適合者っていうのはみんなもともとそういう要素はあって、秩序みたいなものを学んでいくって私は考えている。幼稚園の工作の時間に、みんな廃材で好きなものをパパッと作るんだけど「佑介くんはゆっくりとお椅子に座って、まずじっと考えて、お道具箱からクレパスを持ってこようとして、またしまってとか。すごい考えてる」って先生が言うんだよね。

 段ボールの中にいっぱいに廃材が並んでるんだけど、1個ずつ自分の席に持って行って机に置いて、さあやろうっていうぐらいまでに20分くらいかかるって先生に言われた。そしたらその頃には、もう他の友達は作り終えて、すっかりウルトラマンごっこに夢中で、あなたにちょっかいかけたらしい。「ちゅうたん(※2)遊ぼうよ」って。そうするとあなたは「あとでね」って言うんだって。

※2…中村さんは友人や家族にちゅうたん」と呼ばれている。

 それで完成したら、後生大事に家にそれを持って帰ってくる。それはただの発泡スチロールのトレーに何か付いてる物とかなんだけど、あなたの中ではそれはすごいかっこいいスポーツカーだったりするわけだよね。そういうものを私は、一緒にイメージできるような親でいたいと思ってたから、私としては変わり者を育てる教育ではないと思ってる。

 

色彩感覚の話

母 色彩教育で一番最初にしたのは、もちろん絵は自由に描かせてたけど、いろんな色のタンクトップと半ズボンを用意したんだよね。その中から自分で洋服を選ばせて「自分でTシャツとパンツが仲良しになるような組み合わせを選んで着て」って言うと、選んでくる。それを何度もやっていると「あ、今日はけんかだね」って言ったり、色の相性を気にするようになった。そういう環境で育てた。

中 確かに自分の作品についてよく言われる感想は、やっぱり色のこと。でも、自分では自分らしい色みたいなものを表現しようなんて思ってなくて。自分の中の当たり前を表現したら、他の人から「なんで空をこの色で塗るんですか?」とか聞かれて逆にびっくりすることがあるんだよ。それで「だってこの作品はこういうテーマなんだから空の色はこれじゃなきゃダメでしょう?」みたいに返すんだけど。で、お母さんの専門の色彩学の話を聞くごとに、最終的に僕のぼんやりした考えとまったく一緒で。だから言葉にするとしたら、お母さんの考えていることと同じになる。

 それをやっぱり子どもの時にもらったんだとは思う。絵を描く人も描かない人も、みんなそれぞれ自分のパレットは持ってるわけで。家にあるものだとか、そういうパンツとか靴下とかの色合わせがたぶんその後の人生でパレットに置く絵の具の種類になってくる。でも、僕はね、小学校の時なんかは、僕は好きだけれども、学校の友達、特に男の子は着ないような色の服を着ていることが、やっぱり恥ずかしかったし、いじめられないかと不安だった。「少数派になってもいい」というような教育って、その後もいつまでたっても学校ではされないわけ。

母 わかるわかる。でも、それはある意味、私の子育てがよかったというよりも、あなた自身が葛藤していたと思う。

 

後編に続きます)

 

〈プロフィール〉

なかむらゆうすけ/1978年生まれ。兵庫県宝塚市出身。大阪芸術大学デザイン学科卒業。ASIAN KUNG-FU GENERATION、さだまさしのCDジャケットをはじめ、『謎解きはディナーのあとで』、『夜は短し歩けよ乙女』、音楽の教科書など数多くの書籍カバーを手掛けるイラストレーター。ほかにもアニメ「四畳半神話大系」や「果汁グミ」TVCMのキャラクターデザイン、セイルズとしてのバンド活動、テレビやラジオ出演、エッセイ執筆など表現は多岐にわたる。http://www.yusukenakamura.net/

やましたまちこ大学時代「詩とイラストの個展活動を機にインテリア雑貨デザイナーとしてメーカーに起用される。結婚、出産、子育ての傍らアパレル業界でデザイナー、カラーアナリストとして25を経たのち大学院進学。色彩環境心理学の分野で博士号取得。現在は大手前大学教授。博士(生活環境学)。

 


本記事は『イラストレーション』No.223の内容を本Webサイト用に調整・再録したものです。記載している内容は出版当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。あらかじめご了承下さい。

 

中村佑介さんの母・山下真知子さんの新刊『アタシの昭和お洋服メモリー』(ドニエプル出版)が発売されました。イラストレーションはすべて山下さんが、またデザインは中村さんが担当しています。


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