「宇野亞喜良展 AQUIRAX UNO」開催記念 宇野亞喜良さんの貴重なインタビューを公開

撮影:大童鉄平

2024年4月11日から6月16日まで、東京オペラシティ アートギャラリー(東京・初台)では、宇野亞喜良さんの過去最大規模の展覧会「宇野亞喜良展 AQUIRAX UNO」が開催されています。同展の開催にあわせ、宇野さんを特集した『illustration』No.237に収録された貴重なインタビューを特別に公開します。

宇野さんは「イラストレーター」という言葉がまだ世の中に広まっていない頃から、この業界を牽引し、60年以上にわたって第一線で活躍してきました。デザイナーとしてスタートしたキャリア、周りにいたご友人の話、イラストレーターとしての仕事のこと、そして〝女性〟というモチーフについて。宇野さんが語る言葉を読めば、きっと現在開催中の展覧会をより深く楽しむことが出来るはずです。

*本記事は、2023年1月刊行の『illustration』No.237掲載記事が基となっています。情報は、すべて2022年12月当時のものです。

(文章:平岩茉侑香)

 


デザイナーから始まったキャリア

僕がカルピス食品工業を辞めてしばらくフリーだった頃に、粟津潔(*1)さん、細谷巖(*2)さんと何となく仲がよくなって、よく杉浦康平(*3)さんの家に出入りしていたんですね。同じ頃に、東京藝術大学のデザイン科(旧図案科)を出た福田繁雄(*4)、仲條正義(*5)、江島任(*6)が3人展をしていたので、我々もやろうということで。展覧会はとうとうやらなかったんですけど、それでも杉浦家に集まるのが楽しかった。

(*1)粟津潔……1929–2009年。東京都生まれ。グラフィックデザイナー。1955年「海を返せ」で日宣美賞受賞。その表現領域はグラフィック、映像、彫刻、建築など多岐にわたる。
(*2)細谷巖……1935年神奈川県生まれ。アートディレクター、グラフィックデザイナー。1953年ライトパブリシティに入社、現在代表取締役会長。東京アートディレクターズクラブ(ADC)会長。日本グラフィックデザイナー協会(JAGDA)会員。
(*3)杉浦康平……1932年東京都生まれ。グラフィックデザイナー、神戸芸術工科大学名誉教授、同大学アジアンデザイン研究所顧問。アジア図像研究の第一人者。
(*4)福田繁雄……1932–2009年。東京都生まれ。グラフィックデザイナー。東京藝術大学卒業後、味の素、デスカを経てフリー。日本のトリックアートの第一人者であることから「日本のエッシャー」と称される。
(*5)仲條正義……1933–2021年。東京都生まれ。グラフィックデザイナー。東京藝術大学卒業後、資生堂、デスカを経て仲條デザイン事務所設立。主な仕事に『花椿』(資生堂)アートディレクション、資生堂パーラーのパッケージデザインなどがある。
(*6)江島任……1933–2014年。アートディレクター。東京藝術大学卒業。『ミセス』や『ハイファッション』、『装苑』、『PLAYBOY日本版』などのアートディレクションを務め、日本の雑誌のクオリティ向上に貢献した。

その頃に亀倉雄策(*7)、山城隆一(*8)という当時の一流デザイナーが主催する「21の会」が出来て、僕もちょっと遅れて入ったんです。毎月21日になると国際文化会館にみんなで集まって、1カ月間にやった仕事を各自持ってきて合評会をしていました。半分は研究団体みたいなところがあったので、作品を持ち寄らない時には、当時の〝日本ヌーヴェルヴァーグ(*9)〟と言われた映画作家たちに会ったり、今月は現代建築がテーマだというと建築の話をしたり、日光の東照宮や京都の平等院に行ったりして。1年くらい続いたと思います。「21の会」はいま考えると亀倉雄策、山城隆一、原弘(*10)の3人が作った日本デザインセンター(*11)の下地だったんじゃないかな。若いデザイナーに理論武装を施そうというか、デザインだけやっている世間知らずじゃなくて、ちょっと客観的な論理も展開出来るような気質も作ろうというか。「21の会」にはライトパブリシティ(*12)の村越襄(*13)、細谷巖、ほかにも企業のデザイン部にいたデザイナーも来ていたんですけど、そのメンバーをのぞいたほとんどのメンバーが、その後に出来た日本デザインセンターに入るんです。だから僕も当然誘われました。

(*7)亀倉雄策……1915–1977年。新潟県生まれ。グラフィックデザイナー。日本デザインセンター設立メンバー。日本グラフィックデザイナー協会(JAGDA)初代会長。主な仕事にグッドデザイン賞ロゴマーク、1964年東京オリンピックロゴマーク、NTTロゴマークなどがある。
(*8)山城隆一……1920–1997年。大阪府生まれ。グラフィックデザイナー。阪急百貨店、髙島屋を経て日本デザインセンターを設立。1973年デザイン事務所コミニケーションアーツ・R設立。1972年に「ネ・コラージュ」を発表して以降、猫をモチーフにした作品で年代問わず多くのファンを獲得。
(*9)日本ヌーヴェルヴァーグ……1950年代末から1970年代に出現した日本の映画監督による日本映画のムーブメント。政治や性、犯罪者側から見た犯罪など、タブー視されやすい題材を扱っていた。
(*10)原弘……1903–1986年。長野県生まれ。グラフィックデザイナー。日本デザインセンター設立メンバー。ポスターやパッケージなど数多くのデザインを手がける中、特に装丁において高い評価を受け長年装丁家として第一線で活躍した。
(*11)日本デザインセンター……亀倉雄策、山城隆一、原弘らが中心となり1959年に誕生した広告・デザイン制作会社。旭化成、トヨタ自動車、東芝、アサヒビールなどの8社の出資により設立された。宇野亞喜良は1960年–1964年に在籍。
(*12)ライトパブリシティ……信田富夫、村越襄、波多野富仁男らが1951年に設立した日本で初めての広告専門の制作会社。ロゴマークは和田誠によるもの。現在も銀座に本社を構える。
(*13)村越襄……1925–1996年。神奈川県生まれ。アートディレクター。ライトパブリシティの設立メンバー。1964年東京オリンピックの第2号ポスターのフォトディレクションなどで知られる。

日本デザインセンターは東京の銀座にあって、8つの企業が出資し合って出来ていたんですね。自社のデザイン部の役割を、日本デザインセンターが担っていたわけです。僕はそのうちの1社だった旭化成のチーフを1、2年やったんですけど、たぶん才能がなかったせいか、後半は新設されたビジター部門という、8社以外を担当するフリーセクションに回ることになって。日本専売公社(現日本たばこ産業)のカレンダーを作ったり、1964年の東京オリンピックの頃だったので「オリンピアス」というたばこのデザインをしたりしました。在籍中にヨーロッパにも旅行させてもらって。そんな感じで、最初はイラストレーターではなくて、日本デザインセンターで4、5年デザイナーをしていました。在籍中も自分で描いたイラストレーションを使ってデザインしていたので、当時からデザイナーとイラストレーター、両方の性質がありました。

「風神」(オリジナル)/2020年

 


いい時代に出会った面白い友人たち

日本デザインセンターが出来た後に、横尾忠則(*14)が遅れて入ってきました。お互いに名前は知っていたけど、会ったのはその時が初めて。和田誠(*15)君がいたライトパブリシティも銀座にあるので、横尾忠則と僕で昼に中華料理屋に行くと、和田君たちに会ってね。みんな〝グラフィックデザイナー〟という横文字の職業なのに、〝〇〇丼〟みたいな渋いものを頼んでいました。ほかにも喫茶店で会ったり、輸入書ばかり扱っている本屋で会ったりして。和田君は著書の『銀座界隈ドキドキの日々』(文藝春秋)で、その頃の僕たちのことを書いてくれています。あとは、銀座に新しく出来た早川良雄デザイン事務所で灘本唯人(*16)さんが働いていたから、僕と横尾忠則、和田誠君、灘本唯人さんでわりあい会っていたんです。そこからそのメンバーを中心にして東京イラストレーターズ・クラブ(*17)を作るんですけど。

(*14)横尾忠則……1936年兵庫県生まれ。神戸新聞社、ナショナル宣伝研究所、日本デザインセンター、宇野亞喜良と原田維夫と共に設立したスタジオ・イルフィルを経てフリー。1980年画家に転向。
(*15)和田誠……1936–2019年。大阪府生まれ。イラストレーター・グラフィックデザイナー。多摩美術大学卒業後、ライトパブリシティを経てフリー。イラストレーション、デザイン、映画製作、執筆など多彩に活躍。出版した書籍は200冊を超える。
(*16)灘本唯人……1926–2016年。兵庫県出身。イラストレーター。山陽電鉄嘱託、早川良雄デザイン事務所を経てフリー。東京イラストレーターズ・クラブ創設メンバー。1993年イラストレーターとして初めて紫綬褒章を受章。東京イラストレーターズ・ソサエティの会長や相談役を務めた。
(*17)東京イラストレーターズ・クラブ……宇野亞喜良、横尾忠則、和田誠、灘本唯人、早川良雄、山口はるみらが中心となり1964年に結成したイラストレーター集団。イラストレーターの社会的認知と地位向上のための活動を行う。1970年に活動休止。

その頃からアメリカでも〝イラストレーション〟という言葉が使われるようになって、プッシュピン・スタジオという、イラストレーションを描ける人たちが集まったデザインスタジオが出来たんですね。日本でも僕たちが東京イラストレーターズ・クラブを作って、『平凡パンチ』(マガジンハウス)や、和田君がADをやった『話の特集』(*18)が出てくると、載っている絵に「イラストレーション:◯◯」とクレジットが入るようになった。そこから〝イラストレーション〟という言葉が一般的になったんです。僕が日本デザインセンターに在籍している時にも、これは自分で描きたくないけど絵が必要だなという時には、山下芳郎さんがチーフだったイラストレーション部門に行って「こういう絵をお願いしたい」と頼んでいたので、日本デザインセンターにも既に〝イラストレーション〟というセクションがあったんですね。でも、世間では瞬く間に 〝イラストレーション〟ってちゃんと言ってくれなくなって、〝イラスト〟という略語になっちゃいましたけど。日本だけでしょうね、〝イラスト〟って言葉は。その略語があんまり気持ちよくないなというつもりで、寺山修司(*19)に「〝イラスト〟って言われるんだよ」と言ったら、「いいじゃない、バイオリニ〝スト〟とかピアニ〝スト〟とか、孤高のアーティストみたいで」って、冗談で返されましたね。

(*18)話の特集……1965年から1995年まで発行されたミニコミ誌の草分け的な存在の雑誌。編集長を矢崎泰久、アートディレターを和田誠が担う。表紙や中面に宇野亞喜良のイラストレーションを多数用いた。
(*19)寺山修司……1935–1983年。青森県生まれ。詩人、歌人、劇作家、シナリオライター、映画監督。1965年から発行された『フォアレディースシリーズ』(新書館)の「寺山修司抒情シリーズ」では宇野亞喜良が装丁、装画を手がけた。

和田君と出会ったのは、50年代の終わり頃でした。僕はまだカルピス食品工業にも勤めていなかった頃で、興和新薬(現コーワ)がカエルのキャラクターの絵をハガキで募集するという新聞広告があったので応募したら、僕と和田君が1等賞で。上が和田君の絵、下が僕の絵という全5段の新聞広告で発表があって、「多摩美術大学の学生に和田誠って人がいるんだ」と認識しました。当時、僕は大井町線の九品仏駅に住んでいたんですけど、発表の時に住所も書いてあったので、和田君もあの辺りをとおると「この辺りに宇野亞喜良って人がいるらしい」と思っていたみたいです。だからお互いに当人の顔を知らずに、そんな認識の仕方で出会っているんですね。

1955年に興和新薬が募集したコンペの結果が掲載された新聞の切り抜き。宇野さんと和田誠さんが同時に1等を獲得した。

当時はみんな日宣美(*20)が主催する1年に1回の公募展に応募して賞をもらっていたので、横尾忠則のことも、日本デザインセンターで会う前に日宣美の展覧会で見た「ふしぎなふえふき」のポスターを描いた横尾忠則って認識をしていました。「ああ、あれを描いた人だ」「あの賞をもらった人だ」って、名前を聞くと作品がまず浮かぶという、ちょっと面白い時代。いい時代に面白い友人を作れてよかったですね。

(*20)日宣美……日本宣伝美術会の略称。亀倉雄策、早川良雄、原弘、山名文夫、高橋錦吉らを中心に、デザイナーの社会的地位向上と支援を目的として1951年に結成されたデザイナー組織。日本のグラフィックデザイン界を牽引する多くの逸材を輩出するも1970年解散。

 


デザインとイラストレーション

日本デザインセンターにいた頃は、いずれはイラストレーションを軸に仕事をしたいとはあまり考えていなくて、デザインとイラストレーションは同義語という感覚だったんです。デザインはイラストレーションをメディアに載せる時の作業ぐらいの考えだったので。当然、文字だけ、色面だけでデザインすることもあり得ますけど、僕はイラストレーションを描くのが好きなので、自分で何か描いてデザインすることが多かったです。当時の僕の仕事では写真を使うことも多かったですけど、写真もイラストレーションですからね。だから写真に絵を描き加えたり、絵と組み合わせたりってことをよくやっていました。

『演劇実験室・天井桟敷公園 星の王子さま』ポスター(演劇実験室・天井桟敷)D:宇野亞喜良/1968年

イラストレーションを描く時は、デザインのことはまったく考えないんです。「こんな感じの文章世界かな」ってイラストレーターの宇野亞喜良がビジュアライズしておいて、それをデザイナーの宇野亞喜良がどう持っていこうか考えるという二重人格みたいなところが、たぶんあると思う。

僕にブックカバーの依頼がある時は、ちょっと前まではだいたいデザインも含めての依頼だったので、イラストレーションも描くし、自分でデザインもしていました。デザイナーの仕事が好きでもありますから。ほかのデザイナーが介在するようになったのは近年になってからなので、デザイナーとの仕事体験は、あんまりあるわけではないんです。でも、ほかのデザイナーが僕の描いたものを面白くしてくれたらうれしいですね。今度ギンザ・グラフィック・ギャラリーでやる展覧会「万華鏡」(編集部注:会期は2022年12月9日~2023年1月31日で、現在は終了)のDMやポスターは大島依提亜さんがデザインしてくれたんですけど、ピンクと青を特色にして、金も入れて、会期の矢印のところにも特色のピンクを使うって、我々の世代ではあり得ないことを平気でやってくれているところが面白い。僕がデザインするとこうはならないですね。ここだけに特色を使うのはもったいないから、ほかのところにも使おうって考えてしまいます。これは好きなデザインでした。

 


イラストレーターとしての仕事

自宅とスタジオは港区内で、ひとまたぎのところにあるんです。自宅からスタジオまで真っ直ぐ歩くと7分ぐらいですけど、1時間ほど外を散歩してからスタジオに来るとか、途中スタジオを抜け出して散歩に行くとか、喫茶店に行ってメモするとか、日によっていろいろですね。

仕事の依頼があるとうれしいですよ。イラストレーターとしての存在価値があるというか、僕の絵を使える文化があるんだっていう感じがして。ただ絵を描くことが好きなだけだったら画家でいいんだけど、イラストレーターである以上は、どこか社会的にフィットする機能があるわけですからね。

『ミケランジェロの言葉』ポスター(自主制作)D:宇野亞喜良/1968年

「マジョリカ マジョルカ」と作ったマジョリ画(*21)は新しいジャンルの仕事でした。普通、イラストレーションは見るだけのメディアで、人が使えるものってあんまりないですから。口、目、まゆげ、顔の輪郭、100点以上のパーツを描きましたけど、鼻だけはほとんどバリエーションがないんです。鼻の穴が大きいなんて嫌でしょう? 鼻は抽象的で、線があればいいですから。でも、あとで思えば団子鼻なんかがあっても面白かったかもしれませんね。こういう新しいジャンルの仕事もくるとやっぱりうれしいし、やってみようと思います。

(*21)マジョリ画……宇野亞喜良が描き下ろした100点以上の顔パーツを使って作ることが出来る似顔絵ジェネレーター。リリースから6日間で120万生成を突破し話題に。2016年7月から12月までの期間限定サービス。

最近ではウォルト・ディズニー・ジャパンの仕事で、ディズニーに出てくるお姫さまたちを描きました。ディズニーは子どもの頃から好きだったので、映画「バンビ」なんかは、森が秋になって葉がひらひらと落ちてくるところを「すごいなあ」と思いながら観ていましたね。葉が落ちながら水面にも同じものが映っていて、水面にぴたっとくっついて流れていく。あんなものをよく手描きのアニメーションでやるなぁと。ディズニーの制作風景を見ていると、5、6人の絵描きたちが鹿を囲んで絵を描くとか、リアルなものを見て分析するんですね。アニメーションって、ある主観の誇張で描くものだと思っていたから「ああ、こうやって描くんだ」って。尊敬していたディズニーから、キャラクターを描く依頼がきたのはうれしかった。僕が画家で、油絵具を使ってキャンバスに描いている人間だったら、こういう仕事は来なかったかもしれない。イラストレーターという職業だからこういう注文が来るんでしょうね。

「半長靴」(オリジナル)/2021年

 


“女性”というモチーフについて

僕の家は子どもの頃に喫茶店をやっていたので、客のためのいろんな新聞や出版物が置いてあったんです。大人向けのものがほとんどだったので、『少年クラブ』(講談社)と『少年』(光文社)という少年雑誌は自分で買って読んでいました。3つ違いの妹が買っていた『少女クラブ』(講談社)、『少女』(光文社)や、中原淳一(*22)さんが発行した『それいゆ』(ひまわり社)という女性向けの出版物も見ていたので、そういうものをとおしてフリルだったり、女性性の強いパーツだったり、いろんなものが頭の中にあったんです。だから女性を描く時はわりあい楽に描けましたね。

(*22)中原淳一……1913–1983年。香川県生まれ。雑誌『少女の友』の挿絵や装画が一世を風靡し人気画家に。終戦後、婦人雑誌『それいゆ』、少女雑誌『ひまわり』、『ジュニアそれいゆ』などを創刊し、編集長を歴任。

何も見ずに描くので、いま僕のスタジオを見渡しても分かるけど、女性ものの資料は何もないんですよ。例えばファッション雑誌を見て分析的に「いまはパンツが長いのがいいんだな」、なんてことはしないんです。街で見かける女性や仕事で会う女性をとおして、何となく女性というものをイメージして抽象的な少女や女性を描くことはあるんですけど、ある時代の特性を持つ女性を描くことは避けているし、描けないんです。ファッション画ではないけど、女性のことを描くのが好きみたいな、ちょっと特殊な立場にいるんですね。

時代を描きたいわけではないけど、ずれないようにしたいという気持ちはあります。それと、自分の絵にうっとりするようなナルティシズムはない人物でありたいとは思っているから、自分らしい様式や美学を決めていきたいわけではないんです。自分で描いていて「ああ、これ好きだな」と思う時はありますけどね。だから「こんな女の子、描いたことないな」と思える絵が出来る方が、むしろうれしい。特定の女性のイメージを持って描くイラストレーターもいるけど、僕は特定の女性を描こうとは思っていないし、いろんな女性を描きたいんです。いまの女性が見て、「こういうのありだな」って思ってくれることはうれしいから、そういう意味では時代的でありたいんだけど。

想像力という観点からいうと、「La Paduana Del Re 王のパヴァーヌ」(Musica Humana)というCD、面白いんです。織田信長が活躍した1550年代から1580年代ぐらいにヨーロッパで流行った曲だとか、変奏曲、舞曲だとかを選定していて、当時の信長が聴いていてもおかしくない時代設定で作っているんです。後半に女性コーラスかと思うと、実はボーイソプラノだという曲も入っているんですけど、あたかも信長に少年愛があったかのようにも感じられる、深読み出来る1枚。どこかリアリティを持ちたいんだけど、本質的にはフィクションだという発想が面白いなと思って。僕の創作にも通じる部分がありますね。

「オフェーリア」(オリジナル)/2020年

 

(2022年12月 宇野亞喜良さんのスタジオにて収録)
*本記事は、2023年1月刊行の『illustration』No.237掲載記事が基となっています。情報は、すべて2022年12月当時のものです。

 

〈プロフィール〉

うの・あきら/1934年愛知県生まれ。イラストレーター、グラフィックデザイナー。名古屋市立工業高等学校卒業後、カルピス食品工業に入社し、広告、宣伝に携わる。その後、日本デザインセンターに入社。1964年に同社を退職し、フリーに。1999年紫綬褒章受章。2010年に旭日小綬章受章。作品集として『AQUIRAX WORKS』(玄光社)、『宇野亞喜良 クロニクル』(グラフィック社)、『宇野亞喜良 ファンタジー挿絵の世界』(パイ インターナショナル)などがある。

 


▼こちらもおすすめ

『illustration』No.237では、宇野亞喜良さん、田村セツコさんを巻頭特集。表紙は宇野さんによる描き下ろしです。それぞれのインタビューのほか、宇野さんとブックデザイナー・名久井直子さんの対談も必見。

 

キーワード


関連記事