漫画家デビュー、会社員、そしてイラストレーターへ。ヒョーゴノスケさんの過去といまに迫る、初のロングインタビュー(第1回)

イラストレーションNo.216の特集「多様化するイラストレーション」のなかから、ヒョーゴノスケさんのインタビューを全3回にわたって掲載します。

第2回最終回はこちら)

(連載のまとめはこちらから)

 

高校時代に漫画家デビューし、数々の著名漫画家の元でアシスタントを経験。

その後、ゲーム会社に転職して、2017年からフリーのイラストレーターになった。

さまざまな業種を経験したからこそ、現在のヒョーゴノスケさんの作風がある。

その画風はどのように培われたのだろうか。初のロングインタビュー。

 

高校生で『週刊少年ジャンプ』デビュー

—— ヒョーゴノスケさんは漫画家として16歳でデビューをされていますが、幼い頃から絵を描くことは好きだったのでしょうか?

 物心つくか、つかない頃から描いてましたね。幼稚園の前ぐらいから、漫画家になるって思っていました。

—— やはり小さい頃から漫画を読まれていたのですか?

 最初はまだ文字が読めなかったと思うので、まずは藤子・F・不二雄先生のアニメからだったと思います。「ドラえもん」とかその辺を見て、それから漫画も読むようになって。実は幼稚園に入る前にずっと入院していた時期があったんです。毎日点滴をしなければならない状態だったんですが、その頃にベッドの上でひたすら絵を描いていました。

—— コマ割りで絵を描くようになったのは、いつ頃からですか?

 中学の時ですかね。クラスメイトが登場する漫画をノートに描いて、クラスのみんなに読んでもらって。それがウケがよくて、勝手に連載をしていました。それがコマ割の漫画を描いた最初です。

『ドラゴンボール』の「天下一武道会」(*1)みたいな漫画で、登場人物はクラスメイト。仲のいい友だちが勝ち上がっていきました(笑)。

(*1)天下一武道会:『ドラゴンボール』鳥山明著(集英社)に登場する格闘大会。

—— コマを割るって、子どもにはレベルが高い作業だと思うのですが、すぐに出来たのでしょうか?

 漫画は死ぬほど読んでいたんで大丈夫でした。小さい頃に、藤子・F・不二雄先生が書いた分厚い子ども向けの漫画の描き方の本があったんですよ。最近あまり見ないですけど、小さくてやたら厚い本。それを読んで勉強しました。あとは鳥山明先生の『ヘタッピマンガ研究所』。

—— その後、『週刊少年ジャンプ』(以下『ジャンプ』)に応募されます。応募したきっかけを教えていただけますか?

 まず『ジャンプ』にしようと思ったのは、漫画雑誌はそれしか読んでいなかったからという単純な理由です。実は進路でいろいろとありまして……小学校くらいは何もしなくても勉強が出来ていたんですが、中学に入るとちょっとずつ成績が落ちてきて、高校になるとさっぱりわけが分からなくなってしまったわけです(笑)。それで「高校を卒業したら漫画家になるしかない」という感じで。そんな動機で高校生のうちに漫画家デビューしておこう、と考えて応募作品を描いたんです。

デビューするために描いていたということですね。どんな内容の作品でしたか? 泥棒の話ですね、時代物の。当時、時代物にはまっていたんですよ。映画にしろ、小説にしろ、時代物ばかり。特に津本陽さんの時代小説が好きで、津本さんが書いている『柳生兵庫助』という全8巻の小説があるんですが、そこから自分の「ヒョーゴノスケ」というペンネームをつけたくらいです。

—— 漫画家としてデビューされた時は読み切りでしたが、編集の方と打ち合わせされた後はいかがでしたか?

 最初に応募した漫画を描いたのは、高校1年生の終わりの春休みからでした。高校2年の5月頃に完成して、それから数カ月後に入選の連絡を貰い、担当編集がついてやりとりしていました。しばらくは、ネームを描いては打ち合わせを続けていましたが、形にならなかったですね。

—— デビュー作で描きたいものを描ききった、という感じなのでしょうか?

 デビュー作は話を考えていたら偶然うまくまとまっちゃった、というか。ストーリーの作り方をまったく分かっていなかったんですけど、たまたままとめることが出来たんだと思います。その後は話がうまく作れなくて、担当者にずっとダメ出しされていましたね。

 

漫画家のアシスタントとして学んだこと

—— その間はアシスタントとしてのお仕事をされていたんですか?

 すぐに、アシスタントに入りました。上京してその日か次の日に、高橋陽一先生のスタッフが足りないということで、僕がすぐ行くことになりました。急に1泊2日だけヘルプに入ったのが、最初の仕事でしたね。本当にびっくりですよ。『キャプテン翼』は大好きでしたから、まさか自分がアシスタントをするなんて想像していませんでした。

—— 最初はどんな指示をされるんですか?

 「ここに何番」とスクリーントーンの指示をチーフアシスタントの方が原稿に鉛筆で書くんです。それがまわってきて、その指示通りにやる感じでしたね

—— 高橋さんのアシスタントの後にも、他の漫画家さんのアシスタントをされたんですか?

 その後は、稲田浩司先生(*2)の『ダイの大冒険』で半年間アシスタントをやりました。それから、にわのまこと先生(*3)のところで『BOMBER GIRL』という作品のアシスタントをして、最後にガモウひろし先生(*4)のところに行くことになりました。

 ガモウ先生のところには、19歳から22歳の頃までいました。居心地が本当によくて、連載終了までお世話になりました。ガモウ先生はめちゃくちゃ優しい方で怒鳴られたこともありませんし、アシスタントに気を遣ってくれる方なんですよ。

(*2)稲田浩司:1964年生まれ。漫画家。代表作に『ドラゴンクエストダイの大冒険』、『冒険王ビィト』(共に集英社)などがある。
(*3)にわのまこと:1964年生まれ。漫画家。代表作に『陣内流柔術武闘伝 真島クンすっとばす!!』(集英社)など。
(*4)ガモウひろし:1962年生まれ。漫画家。1993年より『とっても!ラッキーマン』の連載をスタート。同作はアニメ化やゲーム化もされ、代表作となる。

—— 漫画家時代にアシスタントをされていたことが、現在の創作活動に影響していますか?

 直接的ではないかもしれませんが、間接的にはそうですね。ガモウ先生のところはきちんと休みがあるんです。だから、休みの日に僕が何をしていたかというと、家でずっと絵の修行をしていたんですよ。とにかく絵をずっと描いていて。写真がいっぱい載っている雑誌を買ってきては、その写真を全部模写してみたり、美術書を買ってきて、読みながらそれを描いてみたり。その頃が今までで一番絵を描いていた時期かなと思います。この時に自分の絵の基礎は出来た。

—— 漫画を描く時はGペンを使うと思いますが、練習の際の画材は何を使っていたのでしょうか?

 練習はミリペンで描いていました。というのも、Gペンや丸ペンなど、ペン先を付けるタイプのものは扱いにくくて面倒なんです。漫画はそれで描くのが常識でしたけど、何かでミリペンで描いている漫画家の方を見たんです。それでミリペンでも大丈夫なんだ、と思ってミリペンで描くようになりました。

—— Gペンは扱いづらいんですね。

 難しいですよ。インクを倒してこぼしたりすることもたまにあるので。漫画みたいですけど、ペン先を間違えてコーヒーにつけちゃったりすることも本当にあります。一番嫌なのは、インクの乾きが遅いから描いている途中に手でこすってしまうんですよね。定規で線を引くときも、定規の下に一円玉を貼って定規を浮かすことでインクがすれないように工夫していました。

—— 漫画家の方から直接指導されたことはありますか?

 先生から直接というのはあまりなかったですね。『ダイの大冒険』のチーフアシスタントの方に、集中線の描き方だったり、壊れた物をうまく描く方法を学びました。たとえばコーヒーカップだとしたら、「破片を集めたらコーヒーカップになるように考えて破片を描きなさい」とか。

『ドラゴンクエスト−ダイの大冒険1巻』堀井雄二監修/三条陸原作/稲田浩司画(集英社)

第2回に続きます)

 

〈プロフィール〉

ヒョーゴノスケ

イラストレーター。高校生の時『週刊少年ジャンプ』で漫画家デビュー。その後、ゲーム業界へ転職。10年間勤務した会社の制作部門の解散をきっかけに、フリーに。主な仕事に「映画ドラえもん のび太の南極カチコチ大冒険」ポスター、『暗号クラブ』シリーズの装画などがある。

Twitter@hyogonosuke

 


本記事は『イラストレーション』No.216の内容を本Webサイト用に調整・再録したものです。記載している内容は出版当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。あらかじめご了承下さい。

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